真田の里・世界遺産の町・高野山の玄関口、九度山へ日帰りひとり旅!

2016/10/17

いざ、九度山へ日帰りの旅

今日のスケジュール

●成田空港⇒関西空港へ
●関空にて昼食後、レンタカーで九度山へ
●関西空港のある大阪府泉佐野市から国道62号線で峠を超えると、和歌山県紀の川市
●京奈和道路(無料高速道路)を奈良方面へ走り、『高野山口』出口でおり一般道へ
●そこから走ること10分で九度山へ着きます。

関西空港からレンタカーで1時間弱です。

●九度山から高野山へは約40分
●高野山から関西空港までは約1時間半
●関空空港⇒成田空港へ無事帰還

九度山とは

●九度山は高野山の玄関口にある山間の町です。

●紀の川の南岸にあり、そこに流れ込む不動谷川の川筋に沿ってできた谷間と、さらにそこへ東から流れ込む丹生川による谷間からなる町で、高野山への通り道です。

●町内には高野山の開祖である弘法大師空海の母が暮らしていたという慈尊院があります。

空海は月に9度母に会いに来ていたことから九度山の地名が付いたと言われています。

●古くからの高野山領であり、明治まで続きました。

関ヶ原の戦いで西軍について敗れた真田昌幸・信繁親子が、この地に蟄居させられた地でもあります。

▲5月の九度山はこいのぼりが見事

真田庵


真田昌幸・幸村が閉居した屋敷跡に建つ寺院です。

幸村の旗印である六文銭が刻まれた門をくぐると重厚な本堂があります。

境内には真田幸村の墓、真田宝物資料館、与謝蕪村の句碑などがあります。

六文銭の由来

1567年(永禄十年)、武田氏に仕える後の信濃国上田城主真田昌幸に、二人目の男の子が誕生。これが後の真田幸村(信繁)です。
1582年(天正十年)、武田勢は、天目山の戦いに敗れ、信玄の子・勝頼も自刀。これにより主君である武田家は滅亡、昌幸の軍も上田城に引き返すことになりました。ところがその途中、四万余の北条軍に遭遇してしまったのです。
「わが軍はわずか三百。これでは到底勝ち目がない。さて、どうしたものか」
思案に暮れる昌幸の前に、当時15才の幸村が進みでました。
「父上、私によい考えがあります。私に紋のない旗をお与えください」
幸村は六本の無紋の旗に、北条方の武将松田尾張守の旗印「永楽通宝」を描いて兵に持たせ、軍を六隊に分けて闇討ちをかけました。北条方は味方の松田が謀反を起こしたと勘違いし大混乱。それに紛れて真田勢は無事上田城に帰り着くのです。ときにこれが幸村の初陣となりました。
「でかしたぞ。幸村。これにちなんでそなたの旗印には六つの銭を描くがよい」
こうして、幸村は誰もが知る英雄の旗印「六文銭」をもつことになったのです。
(九度山町産業振興課パンフレットより)

▲真田のみち

九度山町公式HP https://www.town.kudoyama.wakayama.jp/

慈尊院 (女人高野)

慈尊院(じそんいん)は、弘安7(816)年、空海(弘法大師)が高野山で必要な物資を調達するための政所として作られた寺院です。

当時、讃岐の国から訪ねてきた空海の母は、女人禁制の高野山に参拝できず、亡くなるまでこの地に滞在したといわれています。

子授け・安産祈願など女性にご利益がある寺院として有名です。

▲山門

▲女性の厄除けを願い乳房形の絵馬が奉納されている。

歴史

弘仁7年(816年)、空海(弘法大師)が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、高野山参詣の要所に当たるこの九度山の雨引山麓に、高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(寺務所)を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場としました。
高齢となった空海の母・阿刀氏(伝承では玉依御前)は、讃岐国多度郡(現:香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来ましたが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していました。(ウィキペディアより)

九度山の名前の由来

空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にということの例えだと言われている)は必ず20数kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って政所の母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられたと言われています。

女人高野とは

空海の母は承和2年(835年)2月5日に死去しましたが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったといわれています。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになりました。空海の母がこの弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、入滅(死去)して本尊に化身したという信仰が盛んになり、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、女人の高野山参りはここということで「女人高野」とも呼ばれています。
高野政所に関して「慈尊院」という名称が文献に現れた最も早い例は三条実行(藤原実行)の『鳥羽上皇高野御幸記』で、天治元年(1124年)、上皇が当地に行幸し、慈尊院の由来について尋ねたことが記されています。
(ウィキペディアより)

国宝 木造弥勒仏坐像
1963年(昭和38年)7月1日、国宝(美術工芸品)に指定。
重要文化財 弥勒堂
「慈尊院弥勒堂」(附 石造露盤宝珠1組、棟札17枚)として、1965年(昭和40年)5月29日、重要文化財(建造物)に指定。鎌倉時代後期の建築。
2004年7月、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。
重要文化財 絹本著色弥勒菩薩像
1994年(平成6年)6月28日、重要文化財(美術工芸品)に指定。平安時代にさかのぼる弥勒菩薩の独尊画像として唯一の存在である。

▲多宝塔

▲この石は「慈尊院」がユネスコ世界遺産に登録されたのを記念して、平山郁夫氏の筆により書かれ彫られたもの。

▲乳房形の絵馬

慈尊院公式サイト http://jison-in.org/

丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)

空海が慈尊院創建の時、守り神として地元ゆかりのある丹生郡比売・高野御子の二神を祀った神社です。

▲正面参道119石段 一ノ鳥居

▲二ノ鳥居

▲拝殿

丹生官省符神社HP http://jison-in.org/

高野山町石道

慈尊院から高野山の大門まで通じる約22kmの参詣道を高野山町石道といい、『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部として、平成17年7月に世界遺産(文化遺産)に登録されました。

高野山開山のおり、空海が木製の卒塔婆を立てて道しるべとした道で、鎌倉時代には、朽ちた木製の卒塔婆の代わりに、五輪塔型の町石が1町(109m)間隔で建てられました。

今日のひとこと

いよいよ2016年大河ドラマ「真田丸」も佳境に入り、真田幸村が九度山を出て大阪城に入りました。九度山が真田の里というだけでなく、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に認定されている場所であることを再認識することができました。
慈尊院は、静かで歴史の重みを感じるお寺でした。めずらしい乳房形の絵馬が奉納されています。
丹生官省符神社からは、高野山山頂を望むことができます。
慈尊院から高野山町石道を通って高野山の山門までの道のりをウォーキングするのもおススメです。
とても有意義な九度山日帰りの旅でした!(^^)!

ぜひ一度、高野山の玄関口、のどかな九度山に出かけてみよう!

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