2019/09/16
今回の鹿児島旅行は行き当たりばったりの旅でしたが。
「知覧特攻平和会館」だけは、最初から行こうと決めていました。
知覧特攻平和会館は、陸軍・知覧特攻基地の跡地にあります。
この地から飛び立ち戦死した若い特攻隊員たちの写真や手紙などの遺品が展示されています。
お母さんや家族・恋人へあてて書かれた最期の手紙が、たくさん展示されていました。
二十歳前後の若者達は皆、達筆で信念を込めたしっかりとした文章。
優秀な青年達ばかりです。
人生最期の手紙です。
今の平和な時代に生きている私達には、とても信じられないことですが。
これが現実だったんだ!
たくさんの特攻隊員達の手紙を読んで涙し、
語り部の方からのお話もうかがい、
時間の経つのを忘れてしまいました。
戦争の悲惨さと平和の有難さを、あらためて考えさせられます。
Contents
知覧特攻平和会館の願い
世界平和を願って・・・
1941年、日本はアメリカを中心とする国々と戦争をはじめましたが、1944年になると各地での戦いに敗れるようになりました。そのため、日本は、最後の手段として特攻作戦を始めました。
戦争が始まった時、知覧にできた陸軍飛行学校の訓練用飛行場は、1945年3月に特攻基地に代わりました。知覧の特攻基地からは、439人が出撃して亡くなりました。
そのようなことから、知覧特攻平和会館では、戦争を二度と繰り返してはならないことを伝えるため、特攻隊員の写真や手紙などを集めて、大切に展示・保管しています。(知覧特攻平和会館パンフレットより抜粋)
特攻とは
特攻とは・・・
爆弾をつけた飛行機にパイロットが乗ったまま、敵の船に体当たりする攻撃のことです。
パイロットは、必ず死ぬことになりました。パイロットの平均年齢は21.6歳、一番若い人は17歳でした。
第二次世界大戦中に行われたこの作戦いよって、陸軍・海軍合わせて約4,000人が命を落としました。今の私達には想像もできませんが、当時の日本では「国のために命をかけて尽くすことは当たり前」と教えられていました。長引く戦争によって飛行機やパイロットが少なくなっていたことなどの理由も重なり、少ない人数で大きな船を沈めることができる特攻作戦が行われたのです。(知覧特攻平和会館パンフレットより抜粋)
▲特攻機「零銭」
昭和20年5月沖縄作戦中エンジントラブルで不時着したものです。
▲「三角兵舎」の復元
出撃する直前の特攻隊員たちが寝泊まりした兵舎です。
出撃前夜にはここで酒を酌み交わし、遺書や家族への手紙を書いたそうです。