2017/10/22
岸和田城は大阪府岸和田市岸城町にあったお城です🏯
毎年9月に岸和田城下で行われる「岸和田だんじり祭り」が、全国的にも有名です。
現在の天守は昭和29年に市民の寄付や旧城主の子孫である岡部氏の要望などにより再建されました。
40数年前に岸和田城を訪れた時は図書館でしたが、現在では市立の展示施設として、岸和田城の歴史紹介や所蔵物の展示が行われています。
岸和田城下を和歌山と大阪を結ぶ紀州街道が通っています。
岸和田藩主岡部氏は参勤交代の折、紀州街道から大坂・京を経て江戸へと向ったそうです。
また、岸和田城は大坂城と和歌山城の中間地点にあり、紀州藩の監視の意味もあったそうです。
今回、40数年ぶりに岸和田城を訪れ、無知であった郷土史に少しでも触れることができ新たな発見に出会いました。
Contents
岸和田城
概要
♠1334年(建武元年)、楠正成の一族和田氏が、当時「岸」と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の地名の起こりとなる。
♠その後、信濃氏、細川氏、三好氏、松浦氏、中村氏、小出氏、松平氏とかわり、寛永17年(1640)岡部宣勝が入城、以来13代続き明治を迎える。
♠大正11年11月1日、大阪市、堺市に次いで府下で3番目に市制を施行し、今日に至っている。
♠別名「ちきり城」とも呼ばれている。
「ちきり城」の名の由来
岸和田城の別名は「猪伏山(いぶせやま)ちきり城」。
「ちきり」とは、機(はた)のたて糸をまく器具で、本丸と二の丸を重ねた形が「ちきり」に似ているところから由来するといわれています。
ちきり城は「千亀利城」「蟄亀利城」とも書かれます。
現在の天守閣は、工事費2264万円を費やして、内部を図書館として活用する目的で昭和29年11月に竣工しました。外観は三層の天守閣と二層の小天守閣となっています。
天守閣の高さは、石垣の高さ約5メートル、石垣上部から鯱(しゃち)を含めた高さが約22メートルです。
昔の絵図に、五層の時の天守閣の高さは、石垣上部から18間(約32.4メートル)と記されているものがあります。
紀州藩のお目付役
岸和田城は大坂城と和歌山城の中間地点にあり、岡部宣勝(のぶかつ)が、岸和田城に入城したのは、紀州の徳川頼宣(よりのぶ)に異心があるとして、そのおさえのためだったといわれています。
ある時、江戸城で、二人が出会った際、頼宣に「君が和泉に居(お)られるのは、我らのおさえのためだと聞き及んでいるが・・・」と問われたので、宣勝は「大身(たいしん)のあなたをおさえるなど、とんでもないことです。せいぜい足の裏に飯粒が付いたくらいのことでしょう」と答えたという。
足の裏についた飯粒は、気持ちが悪いものです。宣勝は、岸和田藩を飯粒にたとえながらも、小藩の意地を通したものでしょう。これを聞いた頼宣は、唖然(あぜん)としたと伝えられています。
鯱(しゃち)にも「阿形」と「うん形」
岸和田城の天守にそびえる鯱(しゃち)は、山門の仁王や神社の社殿前に置かれている狛(こま)犬と同様に、口を開けた「阿(あ)形」と、口を閉じた「うん形」の一対です。「阿形」は南側の鯱で、高さ約1.7メートル、「うん形」は北側約1.6メートルです。
国指定名勝 岸和田城庭園(八陣の庭)
岸和田城庭園(八陣の庭)は、昭和28年に作庭家の重森三玲(しげもりみれい)氏によって、作庭されました。
その芸術上の価値及び近代日本庭園史における学術上の価値が高いことから、平成26年10月6日付けで国の名勝に指定されました。
二の丸
二の丸には「二の丸御殿」と伏見城から二の丸北隅に移築されたとされる「伏見櫓」がありました。戦国時代まではこちらが本丸であったと思われ面積は約8000m²あります。
現在は二の丸公園として整備されています。イタリアンレストランもあります。
犬走り
現存する内堀石垣の下部に周堤帯が存在します。これを犬走りと呼んでいます。城の防衛という見地から見ると非常に不利であり、なぜこのような構造にされたかはわかっていません。脆い泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐためという説が有力です。
「岸和田城の歴史」の詳細は⇒こちら
アルバム
基本情報・アクセス
【基本情報】
所在地
大阪府岸和田市岸城町9-1
電話:072-431-3251
開館時間
開館時間:午前10時
閉館時間:午後5時(入館は4時まで)
休館日
毎週月曜日
年末年始(12月30日~1月4日)
入館料
大人300円
中学生以下無料
【アクセス】
電車でのアクセス
南海電気鉄道 南海本線 蛸地蔵駅→徒歩約10分
車でのアクセス
阪神高速道路 湾岸線 岸和田南出入口→大阪府道29号大阪臨海線→大阪府道39号岸和田港塔原線→大阪府道204号堺阪南線
城内に有料駐車場有り
岸和田だんじり祭り
はじまり
約300年の歴史と伝統を誇る「岸和田だんじり祭」は、元禄16年(1703年)、時の岸和田藩主岡部長泰(おかべながやす)公が、京都伏見稲荷を城内三の丸に勧請し、米や麦、豆、あわやひえなどの5つの穀物がたくさん取れるように(五穀豊穣)祈願し、行った稲荷祭がその始まりと伝えられています。
当初の祭礼は、「にわか」や狂言などの芸事を演じ、その後に三の丸神社、岸城神社へ参拝したようです。
歴史は流れ……
昔は、穀物がたくさん取れるよう祈願したお祭りでしたが、今は社会の構造も様子も変わってきました。収穫をともに願い、祝うといったことからはじまった一年に一度の祭りは時代がかわり、社会が変わる中にあっても、人々の気持ちの根本に流れる「地域」を結びつける精神は、ずっと、つながってきています。
やりまわし
山車、屋台を華とする全国各地の祭礼において、その山車、屋台が曲がり角で方向転換するさまは大きな見所となっています。例えば京都の祇園祭の鉾は車輪の下に、割った竹を敷いて滑らせる「辻まわし」を行う。飛騨高山祭の山車は「戻し車」という第五番目の車輪を使い、変則の三輪となって角を曲がる。
ところが岸和田のだんじりは他の山車のように慎重に角を曲がるのではなく、勢いよく走りながら直角に向きをかえます。言葉では簡単ですが、重さ四トンを超えるだんじりを走りながら操作するのは容易ではありません。祭りの二日間、だんじりは定められた曳行路を何周も何周も駆け巡り、そして曲がり角ごとに「やりまわし」を行います。その迫力とスピードにおいては岸和田だんじり祭を上回るものはないと言えます。
だんじりを前へ前へと曳く青年団、旋回のきっかけをつくる前梃子、舵取り役の後梃子、後梃子に合図を送る大工方、それぞれのタイミングを合わせるのが難しく腕の見せどころです。速く、正確に「やりまわし」を行うには、それぞれの持ち場を受け持つ各団体の息が合うことが重要です。そのため、町ごとの仲間意識が非常に高く強いのも岸和田だんじり祭の大きな特長です。
だんじり名称
岸和田だんじり会館
紀州街道に沿ったかつての岸和田城下の街並を館内全体で再現しつつ、だんじりと祭に関する資料が豊富に展示しています。また、岸和田市内の他のだんじり祭(春木・東岸和田・南掃守・八木・山直・山直南・山滝)も取り扱っています。
【展示内容】
大型マルチスクリーンによる「だんじり祭ハイライト上映」。
江戸から明治にかけてのだんじりの実物を展示。
だんじりの頂上目線で撮影された3D映像。偏光メガネをかけて鑑賞する。
江戸時代からの各種資料・だんじりの彫り物などの展示。
【アクセス】
岸和田駅より徒歩10分
蛸地蔵駅より徒歩8分