岩手県「盛岡城」へ日帰りの旅!『大人の休日倶楽部パス』で行く新幹線乗り降り自由の旅!

2017/07/01

「大人の休日俱楽部パス」4日目は、はやぶさで盛岡へ🚄(3日目は休息日でpassしました)

タイムスケジュール
(往路)東北新幹線はやぶさ51号 東京駅10:04発⇒盛岡駅12:20着
(復路)東北新幹線はやぶさ58号 盛岡駅15:17発⇒大宮駅17:06着
夕方、『斉藤和義ライブ♪♪』 があるため大宮駅で途中下車

盛岡での滞在時間は約3時間弱です。

盛岡駅近くの市営駐輪場でレンタサイクルを借り、

盛岡城🏯目指して、いざ出発🚲💨

地下の駐輪場を出ると、北上川が流れています。

北上川に架かる海運橋からの眺めは最高です。

河岸には、色とりどりのお花が咲き、遠くには岩手山がかすかに見えます。

盛岡城は、とても石垣の美しいお城でした。

土塁の多い東北地方の城郭の中では珍しく、白い花崗岩で石垣が組まれていて、東北三名城のひとつに数えられるそうです。

石川啄木や宮澤賢治が青春時代を過ごした城下町盛岡。

中津川を眺めながら、ベンチに腰を掛け、ちょっとひとやすみ。

今日のイチオシは、盛岡城の美しい花崗岩の石垣と海運橋から見た岩手山の雄大な風景でした。

城下町盛岡

今日の盛岡市の基礎となった城下町は,北上川・中津川・雫石川の合流点に営まれ,城を中心とする三重の堀で区画されていた。

城下町の北から東にかけては,北上山地の丘陵地帯をひかえ,西から南にかけては,豊かな穀倉地帯がひろがる。

陸路は,南北に通る奥州道中(おうしゅうどうちゅう)(街道)に,西からは秋田街道が,東からは野田街道・宮古街道・遠野街道が,盛岡で交わる。また,北上川の水運は,和賀の黒沢尻,仙台藩領石巻を経て江戸へとつながる。

盛岡はまさに,水陸交通の要衝に栄えた城下町と言える。

盛岡駅

新渡戸稲造は盛岡の生まれ

盛岡駅構内に展示されている「盛岡三大祭り」の人形

海運橋

♠開運橋(かいうんばし)は、岩手県盛岡市にある北上川に架かる岩手県道2号盛岡停車場線の橋。
♠盛岡駅と市の中心部を結ぶ重要な橋である。

別名「二度泣き橋」とも呼ばれる由縁
首都圏などからの転勤族の間で語られたのが由来で、初めて盛岡へ訪れ開運橋を渡る際「遠く離れた所まで来てしまった」と一度泣き、転勤期間を終えて盛岡を去ることになり盛岡駅へ向かう途中に再びこの橋を渡り、二度目は離れるのが辛くて泣くというもの。古くから語られるエピソードで、東北新幹線開業以前に広まったと思われる。

海運橋より岩手山がかすかに見えます。

盛岡城

概要

♠盛岡城(もりおかじょう)は岩手県盛岡市(陸奥国岩手郡)にあった日本の城である。
国の史跡に指定されている。
♠「盛岡城」は南部(盛岡)藩南部氏の居城である。
♠西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。
♠白い花崗岩で組まれた石垣は、土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っている。

歴史

室町期~江戸期の城。岩手県盛岡市内丸にあり、別称不来方(こずかた)城。城は北上(きたかみ)川とその支流中津川が注ぐ要害の地に築かれ、古く清原武則(きよはらたけのり)の子孫不来方氏の居館があった所で、室町期に南部氏の臣福士(ふくし)氏が南館(みなみだて)と北館(きただて)を築いていたという。のち戦国末期、豊臣(とよとみ)秀吉によって南部領の支配を認められた南部信直(のぶなお)が、それまでの居城三戸(さんのへ)城(青森県三戸町)を捨て、盛岡の地に築城の工をおこしたのである。築城開始の年は1592年(文禄1)、1597年(慶長2)、1598年など諸説がある。以来、南部氏が20万石で世襲し明治に至っている。城は本丸、二の丸(中の丸)、三の丸(北の丸)と淡路丸からなり、現在岩手公園となり、石垣と堀をよく残している。[小和田哲男](日本大百科全書解説より)

石川啄木歌碑(二の丸跡)

「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心」

櫻山神社

烏帽子岩

神社の看板には、「現在の櫻山神社の場所には、もと八幡社が鎮座しており、その傍らに三角状の岩がありました。この場所の高さが二ノ丸とほぼ同じであったので、利直公は地形を削るよう命じられ三角岩の周囲も削られました。しかし、岩の根は深くやがて烏帽子に似た巨大な岩石が出現しました。……」と記されている。

盛岡城跡(岩手公園)へのアクセス

盛岡市公式サイト

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