臼杵石仏と城下町を訪ねて!大分へ日帰り一人旅!

2016/11/18

大分は、高校の修学旅行で訪れて以来、四十数年ぶりの訪問です。
昔、来た時の記憶はほとんどなく、はじめて見る景色ばかりでした。海と山が近いことや山の形が本州とは違う印象を受けました。
今回は、大分の日帰り一人旅にチャレンジしてみました。

(往路)成田空港発8:25⇒大分空港着10:20
(復路)大分空港発19:35⇒成田空港着21:10

大分空港からレンタカーで臼杵へ

大分空港より 大分空港道路⇒日出バイパス⇒大分自動車道⇒東九州自動車道 臼杵ICから5分で 臼杵石仏群

別府湾SAにてランチタイム

別府湾パノラママップ

曇り空の中、高崎山が見えます。天気のいい日は、国東半島・四国方面まで、くっきりと眺めることができるようです。

いよいよ臼杵にやってきました。

国宝 臼杵石仏

臼杵石仏について

臼杵石仏は、凝灰岩の岩壁に刻まれた60余体の磨崖仏群です。平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫られたといわれていますが、誰がどのような目的で造営したのか、はっきりとしたことは分かっておらず、今もなお多くの謎に包まれています。
昭和55年から14年間に及ぶ保存修理工事が行われ、その際に永年頭部のみの姿で親しまれていた古園石仏(ふるぞのせきぶつ)中尊の大日如来像も胴と一体となりました。そして、平成7年6月、臼杵磨崖仏4群59体が、磨崖仏では全国初、彫刻においても九州初の国宝に指定されました。木彫りとみまがうばかりの見事な彫刻技術と仏の数は、他に類をみることなく、国内外で文化遺産として高い評価を得ています。

臼杵市と中国の敦煌市は姉妹都市。敦煌は「莫高窟」という世界遺産がある市です。磨崖仏つながりですね。


 臼杵石仏群マップ

古園石仏(ふるぞのせきぶつ)

最も有名な石仏です。
中尊の大日如来像は、切れ長の目に引き締まった口元が極めて端正で気品あふれる表情です。以前は、落ちた仏頭が仏体下の台座の上に安置されていましたが、保存のための修復に合わせて仏頭も見事な姿に復位されました。(平安後期の作)

山王山石仏

3体の石仏で、中尊には大きな如来座像をすえ、その左右には脇尊としての如来座像を配す珍しい形式をとっています。邪気のない童顔が心をなごませてくれます。「隠れ地蔵」とも呼ばれ、故安井曽太郎画伯が絶賛した像です。(平安後期頃の作)

薬師如来座像の伝とは、何ぞや?ガイドさん曰く、「~ではなかろうか」という確実ではない仏像に使われている文字であると。

地蔵十王像(ホキ石仏第一群)

中尊に地蔵菩薩をすえ、冥府にあって亡者の罪を裁き救済する十王像を左右に5体ずつ配しています。錫杖を持たず、右足を座し左足をたてている地蔵菩薩は、古い様式で珍しく、光背の彩色唐草紋も残っています。(鎌倉期の作)

如来三尊像(ホキ石仏第一群)

ホキ石仏第一群の中心的な存在である中尊の阿弥陀如来は、静まった顔で、眉、目、髭を墨で描き、量感あふれる姿が特徴です。三尊とも彫技が優れています。(平安後期頃の作)

如来三尊像(ホキ石仏第一群)

中心の三尊は、中尊に金剛界大日如来を配し、右に釈迦如来、左に阿弥陀如来が並んでいます。三尊とも膝前が長く広いのが特徴で、如来像の台座には、願文や経巻を納めたであろう円や四角の孔があります。(平安末期頃の作)

阿弥陀三尊像(ホキ石仏第二群)

見事な彫刻技術で彫られた、臼杵石仏の中でも最も優れた石仏のひとつです。中尊阿弥陀如来像はどっしりと量感豊かで、毅然とした表情は彫技の冴えを感じさせる傑作です。(平安後期頃の作)

臼杵石仏豆知識

石仏が彫られている地層は、約9万年前に阿蘇山噴火の際、流入した噴出物が冷え固まって形成された「阿蘇溶結凝灰岩」と呼ばれるものです。

●ホキ石仏の「ホキ」とはどういう意味?
「崖」という意味の地名です。漢字では「岸險」と書きます。

●石仏と磨崖仏の違いは?
「石仏」は石や岩に彫られた仏像のことを広く言います。
大きさにもよりますが、基本的に持ち運び、動かすことが出来ます。
「磨崖仏」とは、岩肌に彫られていて後ろがくっついています。
その為、屋外にあることが多く、動かすことはできません。

●「国宝」とは言うけれど、いったいどれがいくつ国宝なの
臼杵石仏では、敷地内ほぼすべての仏様が国宝の指定を受けています。
入口より順番にホキ2群に18体、ホキ1群に25体、山王山に3体、
古園石仏に13体、合計59体の仏像が国宝となっています。

石仏を世に広めた人は誰
日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹氏の父、京都帝国大学で教授をしていた小川琢治氏が学界で発表したことで臼杵石仏は広く知られる事となりました。
小川氏が臼杵石仏を訪れるきっかけとなったのは、臼杵市出身の彫刻家、日名子実三(日本サッカー協会のマークのデザイン者)が小川氏に「自分の故郷にはすごい彫刻がある」と臼杵石仏の写真を見せたことが始まりです。

臼杵石仏公式サイト・アクセス

国宝臼杵石仏公式サイトは⇒ こちら

臼杵城跡

臼杵絵地図

臼杵城について

臼杵城は弘治2年(1556年)、大友義鎮(宗麟)によって建てられた城です。臼杵城が築かれた丹生島は、文字通り元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。守りの堅いその地の利を生かして、この地を城郭にしたと考えられます。

大友氏改易後は、福原直高、太田一吉と城主が替り、計帳5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、稲葉氏が臼杵藩5万石余の主として、臼杵城に入ります。以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。

その後、明治新政府の廃城決定により卯寅口門脇櫓、畳櫓以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。

臼杵城跡

大友宗麟

大友宗麟は享禄3年(1530年)、大友家第20代家督の義艦(よしあき)の嫡子として府内(大分市)に生まれ、元服後は義鎮(よししげ)と名乗ります。
弘治2年(1556年)臼杵湾に浮かぶ天然の要害とも言える丹生島に城を築き、府内の館から移り住んだことにより城下に町が形成されました。これが今日、臼杵のまちの礎となったものです。
宗麟は、海外貿易の振興をはかり、外国の風土、学問、宗教、文化に興味を示して積極的に吸収し、理解に努めたということは、当時、すでに国際人としての感覚を身に備えていたと見ることができます。
永禄3年(1560年)には九州六カ国(豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後)の守護職と九州探題についています。晩年になると宗麟のキリスト教に対する熱意が高まり、天正6年(1578年)臼杵の教会において洗礼を受け、ドン・フランシスコと命名されています。
この後、日向国の務志賀(むしか・現、延岡市)にキリスト教の理想郷を設置するため出陣しましたが、耳川の合戦に失敗してからは急速に国力を弱め、失意のうちに生涯を終えています。
まさに波乱万丈の一生を送った名将といえます。

時の鐘

この時報楼の鐘は「原山時鐘」といいます。
鐘に刻まれた銘によると、元禄13年(1700年)に鋳造されたとあります。その後、寛政2年(1790年)に改鋳され、江戸末期までは原山時鐘堂(二王座)で時を告げていたものと記録に残っています。
明治6年(1873年頃)の臼杵城廃城後、この「原山時鐘」が臼杵城畳櫓へ移され、その後も昭和末期まで、鐘の音を聞くことができました。
しかし、いつの頃からか鐘の撞き手がいなくなり、「鐘の音」は途絶えたままとなっていました。平成20年(2008年)、臼杵城西ノ丸鐙坂の土塀復元に際し、この鐘は畳櫓から約140年ぶりに、ここ時鐘櫓跡に置かれました。平成22年(2010年)、鐘の音を復活するため「時報楼」の整備を行い、元禄の昔からの鐘の響きを聞くことができるようになりました。

臼杵観光情報サイト・臼杵城アクセス

臼杵市観光情報公式サイトは⇒ こちら

臼杵ICより大分空港へ直行。予定通り、帰りの飛行機に乗ることができ、無事日帰りの旅は終了 (^_-)-☆

今日のひとこと

ボランティアガイドさんの説明を聞きながら、国宝臼杵石仏を見学しました。1000年以上も前に、なぜこの地に作られたのかは謎ですが。雨が降ると、普段見られない石仏の色が朱色に染まると言って、ガイドさんが写真を見せてくれました。笑みを浮かべた表情や毅然とした表情など、さまざまな仏像を見て、心が癒されました。
大友宗麟が建てた臼杵城跡は、小さいながらも風情のあるお城でした。ゆっくり散策することができ、一人旅を満喫しました。
帰りの高速道路は、霧につつまれ、山並みは水墨画を思わせる幻想的な風景でした。
すっかり、九州が気に入ってしまいました。歴史あり、山あり、海あり、美味しい海の幸あり。これからも、未知なる九州の旅に出かけたいと思います!(^^)!

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