2017/09/25
2017NHK大河ドラマ「井伊直虎」に登場する井伊直親(亀之丞)が12年間過ごした、信州高森町の松源寺と松岡城址を訪ねました。
JR茅野駅からレンタカーで中央高速諏訪インターを入り、松川インターを経由して、南信州フルーツラインを走行。
約1時間で松源寺と松岡城址のある高森町に着きました。
高森町は、市田柿発祥の地でもあります。
亀之丞が過ごした松源寺は、こじんまりとした静かなお寺でした。
亀之丞も眺めたであろう段丘に面した松岡城址本丸からは、天竜川・雄大な南アルプスの山々を望む絶景を楽しむことができました。
Contents
松源寺
松源寺は今から約500年前の永正10年(1513)頃、この地を治める松岡家の菩提寺として建てられた禅寺です。
松源寺と亀之丞
亀之丞(井伊直親)は、遠州(静岡県)の井伊家23代当主で、物語の主人公である直虎(直虎は22代当主直盛の一人娘)の許嫁でした。
今川義元に命を狙われていた亀之丞は、遠州井伊谷(いいのや)から、高森町の松源寺に逃げ、9歳~20歳までの12年間を過ごしました。
当時、高森地域一帯を治めていた松岡氏(松源寺)は井伊氏とつながりがあったからです。
松岡氏と井伊家とのつながりは、井伊家20代の城主・井伊直平が文叔瑞郁禅師を自浄院(後の龍潭寺)の院主に迎えたのが始まり。文叔瑞郁禅師は、松岡城主・伊予守貞正の実弟で、松源寺や龍門寺(飯田市松尾)を開山した名僧です。
その縁から、現在でも浜松市井伊谷と高森町との交流は続いています。
亀之丞は、松源寺の住職から学問を教わり、松岡城のさむらいたちから武術や弓馬の稽古をつけられて育ちました。
その間の事情を知らない亀之丞の許嫁は、出家して「次郎法師」と名乗りました。
青年期に入った亀之丞は「青葉の笛」を手にすることも多くなり、故郷を偲んで奏でる愛笛の音が響き渡りました。また、笛を教えてもらったお千代とは深い仲になり、一子を儲けたとのお話も伝えられています。
20歳になった亀之丞は井伊谷に戻り、井伊直親を名乗り、嫡子虎松(後の直政)を儲けますが、27歳で非業の死を遂げてしまいます。
そこで、出家していた次郎法師が幼少の虎松を後見し、おんな城主虎松として井伊家の舵取りをしました。
直虎は、今川家からの井伊谷徳政令の要求に対して示した政治的手腕は優れていて、歴代当主に記名はありませんが、井伊家受難の時代を救った人物であることは確かです。
直虎は、身を隠していた虎松(後の直政)を天正3年(1575)浜松城主の徳川家康に仕えさせます。
家康に仕えた直政は幾たびの戦いで功績をあげて「徳川四天王」と称され、徳川幕府の基礎づくりに大きな貢献をしました。関ヶ原の戦いで勝利した家康は「天下を争う大戦度々先鋒として勝利を得ること誠に開国の元勲なり」と直政の活躍を称えました。
こうした直政の活躍により、井伊家は再興を果たしました。(JA南信州HPより)
松岡城址
松岡城主は、陸奥の安部貞任の末裔が平安朝の末頃、牛牧に落ち延びて来て古城に住み、やがて本城に居を移し、五百年にわたって勢力を振るったが、天正16年(1588)徳川家康によって改易された。改易されたためか、殆ど史資料が残されていない。
城址の保存状態は極めてよく本丸・二の丸・三の丸・東惣構・西惣構等原形をとどめており、長野県における中世の城跡としては代表的な城跡とされている。
本丸は城内の最東端にあって眼下に天竜川を望み、竜東及び伊那山脈を一望できる景勝の地である。
昭和十七年長野県史蹟に指定され、戦後法令が改正されたが、昭和62年高森町の文化財に指定された。(高森町民俗資料館HPより)
松岡城の詳しい資料は⇒こちらから
アクセス
電車利用
新宿 → JR中央線 約2時間10分 → 岡谷 → JR飯田線 約2時間50分 → 市田
名古屋 → JR東海道本線 約1時間 → 豊橋 → JR飯田線 約3時間40分 → 市田
JR市田駅 TEL(0265)35-2059
車利用
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名古屋 ⇔ 約2時間 ⇔ 高森
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