2018/01/11
東西線行徳駅を降りると、駅の前に地図がありました。
その地図には、お寺と神社がいっぱい載っています。
「寺町通り」という通りもあったりして。
「行徳は戸数千軒、寺百軒」といわれたほどお寺がが多い街だったようです。
お寺や神社が多いのは?
でも、なんでこんなにいっぱいあるの?
江戸時代、行徳には船着場があって、『成田山詣で』や『鹿島詣で』に行く時の通り道になっていたようです。
江戸の庶民たちは、日本橋から船に乗り、行徳船着場まで来て、ここから徒歩で成田街道を通って、成田山新勝寺に向かいました。
松尾芭蕉も、深川から船に乗り、行徳船着場で降りて、ここから現在の行徳街道・佐倉街道・木下街道を通って、鹿島神宮へと歩いたそうですよ。
お寺や神社で旅の安全祈願をして、成田山や鹿島神宮を目指したんでしょうね。
当時の行徳には、有名な笹屋うどん店や旅籠が軒を並べ、たいそう賑わっていたようです。
徳願寺
「寺町通り」には、徳願寺というりっぱなお寺がありました。
山門にはみごとな仁王像が立っていますが。
去年、葛飾八幡宮に行った時、山門に仁王像がいなかったのは、この徳願寺の山門に移されたから、ということを思い出しました。
どこかで繋がっていくのが、歴史散歩の面白さでもありますね。
【由来・いわれ】
埼玉県鴻巣にある勝願寺の末寺であったが、徳川家康の帰依により、慶長十五年(1610年)に、徳川の「徳」と勝願寺の
「願」の二文字をとって徳願寺と名が付けられた。
明治六年(1873年)には、行徳小学校が当寺を仮校舎に開校している。【みどころ】
本尊阿弥陀如来像は、源頼朝の妻北条政子が仏師運慶に命じて彫らせたものといわれている。
境内には、市川市指定文化財の山門、鐘楼、経蔵の他に身代観音堂、宮本武蔵の供養塔などがある。
徳願寺は、徳川家ゆかりのお寺ですが、宮本武蔵もこのお寺に滞在していたようで、武蔵の落款のある書や供養塔が見られます。
また、円山応挙の幽霊の絵もあり、毎年11月16日の日に一般公開されるようです。
徳願寺は、歴史を感じる見どころ満載のお寺です。
妙応寺
寺町通りには、妙応寺というお寺もありました。
七福神全員の像が一挙に並んでいて、ここ妙応寺1か所で七福神参りができる面白いお寺です。
法泉寺
また、『権現道』という細い石畳の道がありました。
「権現道」は、徳川家康が鷹狩に東金まで行く際に通った道で、この名前がついたそうです。
法泉寺というお寺で、家康は3度小休止したそうですよ。
常夜灯
旧江戸川沿いに歩いて行くと、常夜灯があり、今は公園になっています。
常夜灯は、文化9年(1812)に江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が航路安全を祈願して成田山に奉納したものです。
成田山に行った時にも、日本橋の講中が奉納したものがたくさんありました。
行徳船
江戸と行徳を行き交う船の運航が始まったのは、寛永9年(1632)のことです。
航路の独占権を得た本行徳村は、この地に河岸を設置し、船は毎日明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで運航されていました。
この船は一般に「行徳船(ぎょうとくぶね)」と呼ばれ、江戸川を下り、新川・小名木川を経由して、日本橋小網町まで、約12.6キロメートルを就航していました。
現在の常夜灯周辺は、新河岸(しんかし)と呼ばれ、『葛飾誌略』によると、元禄3年(1690)に景観整備されたと推察されます。
やがて文化・文政期(1804~1830)になると、成田山への参詣路として旅人の利用が多くなり、当初10隻だった行徳船も幕末期には62隻にも増え、江戸との往来がますます盛んになりました。
常夜灯は、江戸川を行き交う船や人々の大切な目印だったんですね。
常夜灯のすぐそばに、小さなお店が1軒ありました。
美味しい甘酒をいただき、体も心もぽっかぽか。
江戸時代の賑わいをみせる行徳の街や旧江戸川を行き交う行徳船に
思いを馳せながら、今の旧江戸川の景色を眺めていました。
今も、行徳の街には、神社が17社・お寺が30以上もあるそうです。
私が回っただけでも10はありました。
青空の下、行徳駅から妙典駅まで約2時間の、おすすめお散歩コースです。