2017/08/18
「くろ谷さん」の名で親しまれる浄土宗大本山「金戒光明寺」を訪れました。
幕末の京都守護職を務めた会津藩主・松平容保が本陣を構えたお寺で、新選組発祥の地です。
本陣にふさわしい広大な敷地と堂々たる山門。
京都警護ため、山門からは京都の街を一望できたそうです。
春は、山門前の染井吉野の桜並木が、山門を埋め尽くす程、咲き乱れるそうです。
秋には、枯山水の庭園や広大な敷地の「女坂」などの紅葉がとても美しいのが有名です。
「会津藩殉難者墓地」に参拝しつつ、大河ドラマ「八重の桜」の登場人物に思いを馳せ、境内をゆっくり散策しました。
Contents
金戒光明寺
♦京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院。
♦山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。
♦通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。
♦知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つである。
♦また京都四箇本山(他に知恩院、知恩寺、清浄華院)の一つである。
♦初めは念仏道場として利用されていた。
♦境内には皇族公家の茶の湯に使われた黒谷明星水という名水がある。
歴史
承安5年(1175年)春、法然が比叡山の黒谷を下った。岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで、法然は、ここに草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。
第5世恵顗の時に堂を整え、法然の見た縁起にちなみ紫雲山光明寺と号した。第8世運空は、後光厳天皇に戒を授けて、金戒の二字を賜り、金戒光明寺と呼ぶようになった。
京都守護職本陣
金戒光明寺は、徳川初期に、同じ浄土宗の知恩院とともに、城郭構造に改められていた。
会津藩主松平容保が幕末の文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。
しかし、会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、この年の10月に行われた大政奉還後の王政復古の大号令によって、薩摩藩・長州藩が京都市中の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。
ここ黒谷の地で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔っている。
なお、このころ中間として出入りしていた侠客が、会津小鉄こと上坂仙吉である。(ウィキペディアより)
会津藩主松平容保・京都守護職への経緯
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。文久二年(一八六二)に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。
文久二年閏八月一日、會津藩主松平容保(かたもり)は江戸城へ登城し、十四代将軍徳川家茂から京都守護職・正四位下に任ぜられた。役料五万石・金三万両を与えられた。會津藩は京都守護職に任命されるにあたり幾度か固辞をしたが、藩祖保科正之(三代将軍家光の異母弟)の「家訓(かきん)」に順じて容保が決意したものである。守護職を拝命するにあたっては、家老の西郷頼母・田中土佐は、「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対するが容保の意は変わらず家臣も「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と肩を合わせて泣き崩れたという。これにより君臣一丸となり、會津藩松平容保は家臣一千名を率い文久二年十二月二十四日午前九時頃京都三条大橋に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受け、本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした會津正規兵の行軍が一里余りも続いた。この間、京の町衆も両側に人垣を作り大歓迎するのであった。
本陣に選ばれた理由
1、城構えである
徳川家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都には力を注いだ。直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとしているのである。黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。因みに山内の西翁院にある淀看(よどみ)の茶席(重文)は、茶席より淀川の帆船を見ることが出来たのでこの名が付けられた。また、黒谷古地図によると浪華城遥矚(ようしょく)とあり大坂城まで見えたという。
2、要所に近い
御所まで約二㎞、粟田口(三条大橋東)東海道の発着点までは一・五㎞のくだり、馬で走れば約五分、人でも急げば十五分で到着できる要衝の地であった。
3、千名の軍隊が駐屯できる
約四万坪の大きな寺域により一千名の軍隊が駐屯できた。
本陣といっても戦国時代の野戦とは違い野宿ではなくきちんとした宿舎が必要であった。黒谷には大小五十二の宿坊があり駐屯の為に大方丈及び宿坊二十五ヶ寺を寄宿のため明け渡したという文書が残されている。
以上が選ばれた根源ではないかと思われる。
新選組と会津藩
新選組と會津藩の関係は、幕府が文久二年将軍上洛警備のため浪士組を結成したことに始まる。
文久三年二月八日江戸小石川伝通院に集合した二百四十余名の浪士組は中山道を通り、京都へ出発した。同二十三日京都の壬生へ到着、生麦事件発生により清河八郎他二百余名は江戸へ帰ることとなり、清河と意見を異にした近藤勇・土方らは、水戸浪士芹沢鴨等とともに京都残留を希望し、三月十日老中板倉勝静は京都守護職松平容保に浪士差配を命じ、近藤・芹沢らは京都残留の嘆願書を守護職に提出、同十二日京都守護職御預かりとなった。翌十三日に浪士組の清河等は江戸へ帰った。同十六日には近藤・芹沢等は黒谷で京都守護職松平容保に拝謁がかなった。八月十八日の政変(七卿落ち)の日、武家伝奏より『新選組』の命名とともに市中取締の命を受け、都大路を縦横無尽に走り廻り治安は目立って回復した。新選組の壬生の屯所と黒谷本陣との間では報告・伝達が毎日のように行われていた。
会津藩殉難者墓地
このような時代背景で黒谷を通じ會津藩・新選組の関係が成り立ったのである。現在の黒谷金戒光明寺は、昭和九年に御影堂・大方丈が火災により焼失してしまったが、その他の建物は往時のままである。山上墓地北東には約三百坪の敷地に『會津藩殉難者墓地』が有り、文久二年~慶応三年の五年間に亡くなられた二百三十七霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊を祀る慰霊碑(明治四十年三月建立)がある。墓地には武士のみではなく、使役で仕えたと思われる苗字のない者も、婦人も同様に祀られている。禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に三カ所に分けられ二十二霊祀られている。會津松平家が神道であった関係で七割ほどの人々が神霊として葬られている。
また、會津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客 會津小鉄」の墓がある。會津小鉄は本名上阪(こうさか)仙吉といい、會津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏は、新選組の密偵として大活躍をした。しかしながら、會津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分二百余名を動員し、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したという。以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に黒谷會津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っている。現在西雲院では、六月の第二日曜日に會津藩殉難者追悼法要を會津松平家第十四代当主松平保久(もりひさ)様ご列席のもと京都會津会主催で盛大に勤められている。(金戒光明寺HPより)
アルバム
山門
山門は江戸幕府の命により1828年(文政11)再建にとりかかり、1860年(萬延1)12月に落慶されたもの。古くは9世定玄上人の時代(1398~1415)に建立されたが、応仁の乱にて兵火により焼失し約350年後に再建された。山門桜内壇上正面には等身座像の釈迦三尊と十六羅漢の像が安置されている。
三重塔
会津藩殉難者墓所(会津藩士352名の墓所)
境内
情報・アクセス
地下鉄
地下鉄東西線蹴上駅から徒歩30分
阪急 阪急京都線四条河原町駅、または阪急四条烏丸駅
市バス5番……東天王町下車徒歩15分
32番・203番…岡崎道下車徒歩10分
京阪
京阪本線三条駅から市バス5番で東天王町下車徒歩15分
京阪本線四条駅から市バス203番で岡崎道下車徒歩10分
京阪鴨東線神宮丸太町駅から徒歩30分
または市バス204番で岡崎道下車徒歩10分
京阪鴨東線出町柳駅から市バス203番で岡崎道下車徒歩10分
車
名神高速、京都南ICより35分(黒谷駐車場は30台収容)