難攻不落の城「小田原城」へ往く!

2017/07/27

箱根仙石原から芦ノ湖の箱根町港へ。

「駅伝ミュージアム」と「畔屋」に立ち寄り、その後、箱根新道を通って小田原へ。

歴史の舞台に度々登場する、「小田原城」を訪れました。

上杉謙信も武田信玄も落とせなかった難攻不落の城「小田原城」!

イメージしていた小田原城よりも、はるかに広く、

さすが難攻不落の城と言われる「小田原城」に納得!

あらためて、「百聞は一見にしかず」を実感しました。

小田原城とは

♠小田原城は、神奈川県小田原市にあった、戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)。
♠北条氏の本拠地として有名である。
♠江戸時代には小田原藩の藩庁があった。
♠城跡は国の史跡に指定されている。

小田原城の歴史

小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのこと。
1500年ごろに戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展。

江戸時代を迎えると小田原城は徳川家康の支配するところとなり、その家臣大久保氏を城主として迎え、城の規模は三の丸以内に縮小。
稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、近世城郭として生まれ変わる。
その後、大久保氏が再び城主となり、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきた。

小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちた。

現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定。
また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年(1971)には常盤木門、平成9年(1997)には銅門、平成21年(2009)には馬出門が復元。
平成18年10月に、「日本の歴史公園100選」に選ばれる。

北条五代

戦国時代、小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名が北条氏(後北条氏とも言う)です。歴代当主五人は、北条五代と呼ばれています。
明応4年(1495)、関東で理想の国家を作ろうと、大森氏を退け、北条早雲が伊豆韮山から小田原城に入りました。以後、北条氏は小田原を拠点として、多くの人材を上方から招き、産業を興し、着々と勢力を伸ばしていきました。二代目氏綱が関東支配の礎を築き、三代目氏康の時代には城下町の形態も整えられ、小田原は関東における政治、経済、産業、文化の中心として繁栄しました。そして、天下統一の機運が高まる中、四代氏政・五代氏直は、豊臣秀吉軍の攻撃に備えて町全体を取り囲む巨大な総構を築きましたが、天正18年(1590)、約18万の大軍に小田原を包囲され、約100日に及ぶ籠城戦の後、小田原城を開城し、北条氏は滅亡しました。

伊勢宗瑞(後の北条早雲)

伊勢宗瑞(後の初代早雲)は備中荏原庄(岡山県井原市)を知行していた備中伊勢氏の出身です。伊勢宗瑞と名乗り幕府に出仕していました。長享元年(1487)以降は駿河(静岡県)の大名今川氏に仕え、明応2年(1493)には、将軍足利義政の甥の茶々丸を堀越御所から追い伊豆(静岡県)へ進出します。伊豆一国を治める戦国大名となった早雲は、15世紀末期(通説では明応4年(1495))に相模小田原(神奈川県小田原市)へ進出し、その後相模一国を平定します。

北条氏綱

二代氏綱は早雲の小田原進出後伊豆韮山城に止まった早雲に代わり、小田原城に入ったと見られています。早雲没後本城を小田原城に移し、伊勢から北条への改姓、虎朱印状の創出など、北条氏の基盤を設備した人物です。また、領国を武蔵(東京都・埼玉県)、駿河、下総(千葉県の一部)にまで拡大し、東国の盟主としての地位を確立しました。

北条氏康

三代氏康は氏綱の死後家督を継承し、大規模な検地を行い、税制改正を実施し、更に家臣の軍役などの役負担を把握するなど、領国支配の体制を本格的に整えたことで知られています。天文15年(1546)には氏康の名を著名にした河越合戦に勝利することで、山内・扇谷の両上杉氏を関東から排除し、その勢力範囲は上野(群馬県)に拡大しました。

北条氏政

四代氏政は氏康存命中の永禄3年(1560)に家督を継承しています。永禄4年(1561)の上杉謙信、永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めを退けています。氏直に家督を譲った後も、北条氏の最高実力者として君臨しますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの敗北により切腹しています。

北条氏直

五代氏直は氏政存命中の天正8年(1580)に家督を継承しています。天正10年(1582)には武田氏が滅亡し、次いで織田信長が亡くなる、上野、下野(栃木県)方面へ積極的に軍勢を派遣し、北条氏の支配領域は最大に達しました。しかし、小田原合戦の敗北の後、高野山へ追放され、その翌年に亡くなっています。こうして、約90年にわたる戦国大名北条氏による関東支配は終わりを告げます。

天守閣

天守閣は、昭和35年に市制20周年記念事業として総工費8千万円をかけて復興された小田原市のシンボルです。
江戸時代に造られた雛型や引き図(宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図)を基に昭和35年に江戸時代の姿として外観復元され、内部は歴史資料の展示施設となっています。復興に当たっては、「瓦一枚運動」が展開され、多くの市民からの寄付が寄せられました。

3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m、鉄筋コンクリート造、延床面積1822m2となっています。なお、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられたものです。
内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。
小田原市では平成18 年に天守閣の高さを基準とした高度規制を行い、天守閣の高さを超える建物の建築を制限し、長い時間をかけて育まれてきた歴史景観を次代に受け継いでいくこととしています。

常盤木門

小田原城本丸には常盤木門、鉄門の2つの城門がありました。このうち常盤木門は本丸の正門にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていました。多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。
本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。元禄16年(1703年)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870年)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。
現在の常盤木門は、市制30周年事業として再建したもので、昭和46年(1971年)3月に完成しました。

基本情報・アクセス

小田原城公式サイト

利用案内は⇒こちらから

交通アクセスは⇒こちらから

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