2019/09/12
今朝は、城山エリアを早朝散歩にでかけました。
城山ホテルから西郷銅像まで、約1時間半のお散歩コースです。
このエリアは、西郷隆盛洞窟など西郷どんゆかりの史跡が数多く残っています。
城山は市街地の中心部で、標高108mの小高い山。
600種以上の温帯・亜熱帯性植物が自生する自然の宝庫でもあるそうです。
ホテルからの道は下りなので、汗をかきながらも楽に歩けます。
去年の、大河ドラマ「西郷どん」の場面を思い浮かべながら、
西郷どんゆかりの地を巡りました。
「城山エリア」早朝散歩
城山ホテル鹿児島⇒石仏十三体⇒西郷隆盛洞窟⇒西郷隆盛終焉の地⇒薩摩義士碑⇒鶴丸城跡⇒西郷銅像
石仏十三体
▲鹿児島市の人々が四国88ヵ所の巡礼にちなんで88体の石仏を建立。
うち13体と後に見つかった9体も加えられ、安置されています。
西郷隆盛洞窟
▲西南戦争で政府軍に追い詰められた西郷軍は、城山にたてこもりました。
西郷隆盛が、最後の5日間を過ごした洞窟です。
「おはんらにやった命」
―西南戦争 最後の司令部-1877年(明治10年)9月24日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まりました。
城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余り。これを囲む政府軍は、何重もの柵をめぐらし、その数4万。
死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間過ごしたこの洞窟を出ました。桐野利秋・別府晋介・村田新八・池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。
この日の西郷の出で立ちは、妻のイトが縫った縞の単衣に白い兵児帯。
ゆくりと岩崎谷を下ります。その時、流れ弾が西郷の腰に命中。別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです。西南戦争というのは、不平士族の反乱のあいつぐ中、西郷を慕う私学校の生徒たちが、政府の挑発によって引き起こした暴動が始まりです。
首謀者の引き渡しか全面戦争か、その結論を出したのは「おはんらにやった命」という西郷の一言でした。
2月15日、ついに挙兵。熊本で政府軍と激しい攻防をくりかえすも、近代兵器の前に敗退。
7か月にわたる大乱の最後を、西郷は故山城山で迎えたのです。(西郷洞窟前の説明版より抜粋)
西郷隆盛終焉の地
「晋どん、もうここらでよか」
―波乱の道、ここに尽きる―ズドン、ズドン!2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部を打ち抜きました。
城山洞窟を出て、わずか300m、650歩でついに途はとざされたのです。
「晋どん、もうここらでよか。」東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。
1877年(明治10)9月24日のことです。西郷を敬愛する私学校生徒を中心に強大な反政府勢力となった薩軍が、2月15日に50年ぶりの豪雪をついて熊本に軍を進めて以来、7か月も続いた「西南の役」が終わったのです。熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れ、人吉から宮崎、延岡に追われた薩軍はついに解散。西郷以下の幹部は、宮崎県北の可愛岳を突破し九州の中央山脈を縦走する難行軍の末、故郷鹿児島を死に場所に選んだのです。
岩崎谷の銃声がやみ、西郷の死体が発見された時、政府軍の総司令、山縣有朋中将は「翁はまことの天下の豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ。」と語り、いつまでも黙とうしたということです。(終焉の地の説明版より抜粋)
薩摩義士碑
▲1753年、薩摩藩は幕府に木曽川治水工事を命じられ、家老・平田靭負を総奉行に約1000人を派遣しました。
完成するまでに、悪疫の流行などで84人の犠牲者を出し、その責任を一身に負い、平田が自刃。
1920(大正9)年、慰霊のために建立されたのがこの薩摩義士碑です。
鶴丸城跡
▲鶴丸城は1601年(慶長7年)に島津家18代家久が築いた平城です。
鶴が翼をひろげた形をしていることから鶴丸城と呼ばれたとのこと(鹿児島城が正式名称)。
西郷銅像
昭和12年、西郷隆盛没後50年祭の記念として除幕されました。
鹿児島市出身で、渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者でもある安藤照氏が8年かけて制作しました。
高さ6メートルの像(台座まで入れると高さ約8メートル)です。
今日のひとこと
城山エリアを散歩して、「西南戦争」の歴史に触れ、無知な私にはいろいろ気づきがありました。
・西郷どんは、政府軍と戦うことを最後まで避けようとしていたこと。
・薩摩は武士が多かったので、必然的に士族の不平勢力が大きかったこと。
・その士族の不平の方向を変えるため、西郷どんは私学校を創設したこと。
・政府からの視察を、私学生たちが刺殺と聞き間違え、戦がはじまったのではないかと言う説などなど・・。
帰りは、100mの登りはきつく、ホテルのシャトルバスで城山へ戻りました。